yahhoi's novel.

私ことやっほいの小説置場です。オリジナル小説に加えレギオンズの皆様との小説、堕華さんとの提携小説や東方二次創作等を書いていきます。

東方修行僧 5

幻想卿は春を迎え桜を筆頭に色んな種類の木々や花達が開花する。

私もそれに酔いしれたい気分だが、目の前の少女がそれを許してくれるとは思わない。

「では、今日は「悲しみ」を訓練していきましょう」

まだ鳥が囀ったばかりだというのに華扇はもう修行をつける気満々だ。

しかし逆らったら怒涛の鍛錬が待っているので、私は眠い目を擦って無理やり体を起こした。

それにしても、悲しみの訓練とは一体どういう物なのだろう。

 

 

黒い服を着た人々が涙を拭う。

奥にある写真には黒い帯が二つ入っており、周りには真っ白な花がところ狭しと並べられている。

私はいつも着用しているニット帽とスライドヘッドホンを外し、喪服に着替えた。

そう。ここは葬儀場。

人間がその身朽ち果てた時に最後に身内や友人が決別の意を述べ、安心して極楽浄土に行けるようにする儀式だ。

悲しみについてより深く考えるなら、一番生命の死に立ち会える職業に就けばいい。という華扇の考えから私は葬儀の司会をやることになった。

近年妖怪は既に死体である人間は喰らわなくなったので、こういった『葬儀』をする必要性が出て来たのである。

こういう事を神社で行えばいいのに。そうすれば博麗神社も少しは繁盛するんじゃないか。

人の死を利用して儲けるというのは、些か良い物ではないが。

 

 

「・・・様には、誠にご冥福を祈ります」

葬儀が終わり、参列者は涙ながらに席を離れる者もいれば、死者との別れを惜しみ亡骸に顔を埋め泣く者もいた。

改めて、この仕事は大変なものである。泣く事が許されず、常に平静を保っていなくてはならない。

だが、「死」と向き合えるとてもいい仕事だ。

参列者の様子を見てみると、皆死者との思い出をそれぞれ話している。

目にはもう涙は無いが、心のどっかではまだ死んだ事に対して何かが引っ掛かっているのだろう。

人はどのタイミングで「他人の死を乗り越える」のか?

あまり口に出して良い物ではないが、この参列者は今こそ悲しみに暮れているが時間が経てばまたいつも通りの日常に追われ、死者の事はたまに思い出す程度のものになっているだろう。

それは果たして死を「乗り越えた」と言えるのだろうか?

私は、言えると思う。

あくまで自論だからそれが正解だと強要はしないが、私はしがらみから前を向き、死んでいった者を忘れないように頭の中に記憶させ、いつも通りの日常に戻るという事が「乗り越える」というものだと思う。

いつまでも死者との思い出に囚われて死者と決別する勇気の無い者は決して乗り越えられない。

魂はいつも輪廻転生を繰り返している。周りがどんなに死者を嘆いても、死者は戻ってくる事は無い。それどころか、もう次の生を受ける準備をしている。

結局、「死」というものはただ単に現世から一時的に離れる事でしかないのだ。矛盾するようだが、死者は戻ってくる。それまでの縁を全て切って。つまり、生き返ったらその魂は「赤の他人」となる。死者を想って死者を嘆くそれは、自分の中のもうこの世には存在しないはずの「前世の記憶」を引きずっているだけでしかない。言い切ってしまえば、忘れてしまっても悪いことは無いのだ。

ただそれでは情の薄い人間になってしまう為、人は死者を愁い、惜しみ、悔やむ事によって死者の記憶を鮮明に脳に焼付け、忘れないようにするのだ。

 

 

ここまで死について考えたのは初めてかもしれない。あたかも最初から持っていた考えのように話したが、途中からは思いつきで発展していった、即興で作った自論である。これもこの仕事の副産物なのだろうか。

そして「死」について具体的な考えが生まれた事によって、私は人が死んだ時の悲しみに少し前向きになれた気がした。